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2010/11/14

エンカウンターグループに参加して

昨年のエンカウンターグループは初めての体験でしたが、今年は2回目でした。2回目でしたが、初めて会う人もいて話も去年の話とは違うはなしなので、私にとってはやはり初めての気持ちでの参加でした。具体的に場面を挙げていくと、きりがないくらいにたくさんいろんなことがありましたし、色々なことに出会うことができました。

もう時間も経っているし、書くと実際のことと離れてしまうかもしれないので、場面を一つ一つ書いていくことはしないでおこうと思います。今回のエンカウンターグループで私が一番感じたのは、人の気持ちというものは、言葉というものは、聴こえてくるもの、心に響いてくるものだということです。聞こうとして聞くのではなく、聴こえてくるし響いてくるのだから、とても簡単です。シンプルなことです。人の言葉がちゃんと自分の心に響くようになっていれば、あとは耳を澄ましていればいいのです。

でもこれが意外と難しい。そうしようとしてできるものでもないが、何もしないでできるものでもない。それに心は目に見えないし、簡単に触れないし、すぐにかたくなったり、閉じてしまったりしてしまいます。文章にすると心というのはなぞなぞのようです。私はこれまでなぞなぞを解こうとして、ずいぶん頭を絞ってきました。どうして気持ちは伝わらないのか?どうして人を恐ろしいとおもうのか?どうして心は自分の思うままにならないのか?どうしてさびしいのか、孤独なのか?なぞなぞで私の頭の中はパンパンです。なぞなぞは解けることもあるけれど、なぞはなぞを呼びます。

いたちごっこです。そうこうしているうちに私は自分自身の心から、離れてしまいます。
心はとてもこんがらがってかたいものになってしまいます。今回のエンカウンターグループでは、なぞなぞが解けることはなかったけれど、頭を絞ることから離れて、ずいぶん自由な気分で参加させてもらいました。楽しいときには楽しく、悲しいときには悲しく、嬉しいときには嬉しい。私の心はゴムまりのように飛んだり跳ねたり伸びたり縮んだりしましたが、それに自分自身がちゃんとついていけている感覚がありました。

こんな感覚は普段ではあまりないことです。ちょっと話は横道にそれますが、世の中はカタチにあふれていると思います。幸せのかたち、不幸のかたち、優れたかたち、醜いかたち。かたちはとても便利だし、とてもわかりやすい。かたちがあれば自分自身を使わなくても生きていかれるから。だからみんな自分を何かのかたちに押し込めて、でも自分自身はかたちになることはできないので、かたちからはみ出した部分で悲しんだり、痛みを感じたりしている。はみ出た悲しみや痛みは、とても悲しいし痛いのだけれど、自分自身まで届かないので不十分で慢性的です。私も社会人として世の中で働いているので仕事のこととか給料とか月々の支払いとかが色々あるので、かたちのことがとても気になっています。ゴムまりのように飛んだり跳ねたりしてばかりいたら、月々の支払いに差し支えるかもしれないと心配になってしまいます。でもエンカウンターグループの時には、かたちのことにはあまりとらわれないで自由な気分でいられました。

私がそのような気分でいられたのは、エンカウンターに参加している人たちがみんな、他の誰でもない自分自身になろうとして、自分自身の言葉で語ろうとされていたからです。そして他の誰でもない一人ひとりを大事にしようとさされていたからだと思います。私はその中に座って、耳を澄ましているだけでよかったのです。聞こえてくる言葉、響いてくるものをそのまま相手にお返しするだけで、私は心に触れることができまし た。そこで触れられたものに好き嫌いや良いことも悪いこともなくて、その人その人の温度があって、涙が出るほど暖かくて大事なものでした。そういう大事なものに触れさせていただけたということが、今回のエンカウンンターグループに参加して一番嬉しかったことです。とても有難いことです。言葉が届くということ、言葉を届けられるということは本当に嬉しいことです。

大きい声はいやでも耳に入ってくるし、立派で正しい言葉にはなんとなく拍手をしたり、わかったような顔をしたりしたくなる。でもやっぱり自分は、小さくて不恰好で、すぐに消えてしまうけれど暖かさがあって、他のどこにもないような声や言葉が好きです。そういうことに私は価値を置いているなと実感しました。月々の支払いを滞りなく済ませることも、私が生きていくうえでは非常に重要なことです。自分が大切にしたいものを大事にしていけるような生き方をこれからも私はしていくだろうなと思いました。

《S・Y》