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2012/11/18

エンカウンターグループ研修会に参加して

今回、私は10月7日から10月10日まで、4日間のエンカウンターグループ研修会に参加させて頂きました。
私の所では、今回の研修会が始まる少し前から、学習会の方でロールプレイングの勉強に入っていました。ロールプレイングでの私は、形などに囚われたり、自分の処で動く気持ちを置いておくことが出来なかったりと、私は聴くことの難しさに困惑していましたが、エンカウンター研修会には普段なかなか会う事が少ない方々も参加されるので、一人でも多くの方の言葉を聴かせて頂き、その経験から何かを学べたら、少しでも自信に繋がるのではないかと思っていました。しかし、どの様な展開になるのか解らないし、自分に聴ける自信が無かったので、とても不安でした。沢山の方達が居る所で言葉を出すことも、想像すると緊張しました。

エンカウンターが始まってから私は、とにかく聴いていこう。と、意気込んでいて、実は参加しているというよりは、挑んでいる状態だったと思います。その時の自分は、それに気が付いていなかったので、午前中、自分なりに一生懸命関わらせていただいたのですが、緊張のためかひどく疲れが残りました。「聴かせていただくとは、こういうのとは何か違うな。」そのような、気持ちにどこか違和感がありました。違和感は、その後もずっと残っていました。

話が前後してしまいますが、初日の私が、意気込んで関わらせて頂く少し前に、気付いたことがありました。私は、エンカウンターのことを、緊張する苦手なものとしてとらえるあまり、エンカウンターって、いったい何だったろう・・。と、よく解っていなかったのですが、今まで気が付かなかった、とても大切な事を感じました。そのことも、書いておこうと思います。
エンカウンターの研修会が始まる少し前の時期に、学習会での箱庭療法の時間や、表現療法の研修会で私が学び、感じることが出来た、ある感覚があります。それを、エンカウンターが始まり、円になって皆さんと座った時に、感じました。

箱庭療法では、その日その瞬間の自分を、箱庭の中に、選び、手に取った物を用いて置いていきます。意識して置いたものや、無意識に置いたもの、置かれたもの一つずつ全部がその方。だから、私は置かれたものは大切に拝見させて頂き、その世界を大切に関わらせて貰いたいと、感じた事があります。表現療法での絵や、表現された処も、一つずつ大切なその方自身の世界で、箱庭で置かれた「もの」を、かかわった方が勝手に位置をずらしたり、「もの」を足したり引いたり出来るはずがないですし、表現兵法での表現された絵等も同じ。「もの」や「絵」のところが、エンカウンターでは「言葉」として表現され、その場にいる人達それぞれのところで受け取り、伝え返して差し上げる。そういうことかな・・と、そこのところが、最初に私が感じた事です。今さらながらですが、理解の所ではなく、私自身の気持ちがそう気付いたのです。

「言葉」は、箱庭や表現みたいにそこに留まってじっくりと目で見られるものではない。目や耳、その場での空気全体で、感じとらせて頂くことで、その方を教えて頂けるのに、言葉は必要なもの。気を付けていないと、自分が気になった言葉は雪みたいに消えてしまったり、どこかに埋もれて見えづらいものになってしま う。

そして、箱庭や表現では、シェアさせて頂く時に、関わらせて頂くこちら側が表現した絵等を、そこに用いてくることはあり得ないように、エンカウンターの処でも同じことで、「言葉」を聴かせて頂く時に、こちら側の処ばかりを用いては、聴くことが出来ない。「聴かなければ、聴かせて貰いたい私。」ばかりが、心の大半を占める状態でこちら側があるということは・・、自分の処を置いておけてはいなく、自分が自分の中に大きく存在しながら関わっていること。

私は2日目に、参加されていたある方の言葉を聴いた時、私の中にあった、自分を否定している処が動いてしまい、なんだか困ったことになってしまいました。その時、自分は関わらせて頂いてはいなかったけれど、「聴かなければ、聴かせて貰いたい私。」の存在が大きくて、自分の閉まっていた処に触れやすい状態だった。結果、聴けてはいなかったのです。その悔しさのまま、私は最終日まで参加したのですが、初日からの違和感、2日目の悔しさ、聴けないのに聴こうとする、それを情けなく思う自分・・。そんなことをやっているうちに、最後に私は気が付いた事がありました。

その様な状態の中に、「自分が居る」。私自身の存在を、自分の中に感じました。自分自身を置いておけている状態とは、自分の中に感じた自分を認め、そこに待っていて貰うこと、上手く文章に出来ないのですが・・。自分の感情に相手の方の言葉が触れて動いたとしても、その自分全体も認め、眺められる位置に居 る。ということではないだろうかと、思いました。その、望ましい状態に近くに居られることで、目の前で「言葉」にして表現してくださっているその方全体を、丁寧に感じ取ることが出来るのではないでしょう か。私が感じたことは、エンカウンターばかりではなく、カウンセリングの場にも繋がっていると思います。

今、考えてみると私は“エンカウンターの場”を「聴きあい、伝えあい」の場・・、ではなく、“自分が聴く事の練習の場”にしようとした私があったことに気が付きました。

聴かせて頂くということの根本的な処、本質のようなものを、自分はまだ理解出来てはいなかった・・と思います。エンカウンターの場には、参加された方それぞれの処に湧くその場、その場での思いがあり、気持ちの込められた貴重な言葉は、それぞれの処に大切に受け取られ、関わりが生まれる。

私は、自分を情けなく思いましたが、次回でのエンカウンター研修会から、そしてこれからの聴かせて頂く私に、きっと良い影響がある反省点になっただろうと思います。私一人では、気が付かなかった事が沢山解りました。参加された皆さん、世話人の先生、ありがとうございました。

M・N