ブログ

2009/04/13

カウンセリングに思う

今日では『カウンセリング』と言う言葉を耳にする事が、随分と多くなりました。化粧品やダイエット等の広告にも、その活字を目にする事があり、また 新聞やテレビのニュースの中でも、様々な出来事をとおして、カウンセリングの話がなされています。私がカウンセリングと出あった頃に比べると、その必要性も一層理解され、興味を示されたり、学んでみたい、体験したい、と思われる方々が増えてきている様に思われます。

 

また その一方で、カウンセリングという言葉が一人歩きをして、カウンセラーがアドバイスを特効薬の様に与える、とか問題の解決方法を教える等と思われていたりします。さらにはカウンセリングは『問題や悩みを持っている人のみが必要とするもので、問題や悩みのない自分には不要なもの』と考えておられる方々にも出会う事があります。

 

知識・情報・技法・技術を学ぶことで『カウンセリングができる』と考えている人々も多く「何ヶ月くらい勉強すると、カウンセラーになれますか」という問い合わせも稀ではありません。

 

言葉が一人歩きする事は日常の対人関係の中で、いつも起こっていて決して特別な事ではありません。聞く人の聞き様(持っている価値観・尺度等)で、また聞く人のその時の気分もあいまって聞いてしまうので防ぎ様もない事です。話は、話す人の中にあるのですが話してしまうと聞く人の話になってしまい、話しをしている人の『生きて在る世界』からは、どんどん離れていってしまいます。

 

「いくら話ても分かってもらえない」とか「もう話したくない。聞いてくれなくてもいいです」に なってしまって、自分を分かってもらうのをあきらめたりする事があります。また全然違う受けとめ方をされてしまって、「そんな事を言ったのではない」と腹立たしさを覚えたり、その為に「自分の気持ちは誰にも分かってくれない」「人が信じられない」等と訴える人々もおります。

 

一方 話す事の困難さも痛感します。ありとあらゆる他の存在(目に見えるもの・見えないもの・自分の思いや考えも含め)が自分の中心と言いましょうか、魂の揺さ振られるところと言いましょうか、そういうところと呼応すると『感じて動いた私のところ』となって言葉になるのでしょう。それを素直にそのまま表現しようとしても、なかなかピッタリの言葉が見つからなかったり、何と言っていいのかさえも、分からなかったりします。また 説明をしようとすればするほど、言いたかった気持ちから離れていってしまい、妙に理屈っぽくなってしまうと言う事は、よく経験する事です。さらには、体験をしているにもかかわらず、意識することすらできない状態の場合もあります。

 

『言葉は心』と言われ、言葉にはその言葉を支えている、その人の心情の世界があります。言葉の上辺だけを聞いて勝手に分かってしまったり、分かってくれるだろうと言葉が足りなかったりすると、大きな誤解のまま、取り返しがつかなくなってしまう事にもなりかねません。

 

多くの人に2人一組になって頂き、一人の人に簡単な絵を見て頂いて、相手の人にそれを言葉で伝えて描いてもらう、ということをして頂いたことがあります。元になる絵は一つなのに、描かれた絵は、『似て非なるもの』だったのは言うまでもなく、1枚として同じ絵はありませんでした。言葉にして伝える方も、それを受け取る方も、自分の中に共通のイメージは確かにあって、しかし随分と違うものでした。

 

このことからも、言葉を聞いて、あるいは物を見て、『分かった』や『理解した』は、それぞれのその人の『分かり』や『理解』であって、客観的な事実とは違うことが分かります、それぞれその人にとっての主観的な事実・真実でありましょう。

 

日々の暮らしの中では、聞く事や話す事は特に意識することなく、当たり前になされている事です。しかし、相手の話を聞いているし、自分のことを話している、と言いながらどれほどのものが伝わりあっているのでしょうか。時には「あなたの話をちゃんと聞いているよ」と言いながら、相手の感情が無視され、無視していることさえも自覚されることなく、話し手の話をとってしまい、自分の話にすり替えて、聞き手の方の体験談が長々と語られることがあります。

 

また 教える・育てると言う名目の基に、自分の思いや考え等を、押しつけてしまったり、或いは
「人にはやさしくしなければいけない」等と、怒りながら説教をしてみたりと言葉で語られながら、
言葉とはまったく違うものが、相手に伝わっていったりすることも、稀ではありません。「あなたの事が大事だと思うからこそ言うのよ」とよく耳にする言葉ですが、言われた方が気持ちを大事にしてもらえたと少しも思えなかったり、実は、言っている方が自分の気持ちを大事にしていただけと言う事も随分と起こります。関係が何かぎくしゃくしてしまったり、壊れてしまったりしても、自分で気が付かないことも多いものです。

 

私達が言葉を覚える時は、使った相手の人の感情や、その時の背景等も色付けされて覚えます。同じ言葉で表現されていても、定義付けは各人各様です。辞書に載っている意味と同じに使われてはいないことが、多々あります。私は主に、言葉を手がかりとして、その人の心情の世界を聴かせて頂いていますが、言葉の持つ働きをいつも実感しています。『人が育つ・心が育つ』と言う事と『話を聴く・話す』と言う事が非常に大きな関連があると考えています。『話を聴く・話す』は『心を聴く・心を放つ』と置き換えてもいいでしょう。カウンセリングは心理的適応を目指しているものです。
まったくの個人・その人自身が、たった今の自分の心情を言葉にし、感じ、味わって心を解き放つことができるようにと願いながら、聴かせていただいています。

 

悩みや、いわゆる問題を抱えることは、悪いこと、いけないことと考えたり、理論や知識であたかも解決できるように思い込んでしまうことは、よくあることです。人との間で葛藤が生じ、問題となって悩むと言う事は、心が成長する為に必要不可欠な事です。その時は自分の人生のテーマ(題)を問うている大事な時なのだと考えています。自分で悩み考え、自分で決めて、自分で行動する、その一連のプロセスが、その人の人生そのものであって、心が育ちつつあるところです。せっかくの学びの時を、他の人が悩んであげて、結論を出してあげて「さぁ実行だけしなさい」では、心が育つどころか、生きている意味を見いだせないまま、ロボットの様な人になってしまうでしょう。生きる事を代わってもらう事・代わってあげる事は、誰にも出来ない事です。しかし 自らの人生に立ち向かっていこうとする力は、全ての人がその人の分だけ、ちゃんと持ち合わせています。独り独りのそれぞれのかけがいのない存在を認め合いながら、心を通わせ合う関係がその力を働き出させ、お互いの心を育み合っていくと実感しています。それぞれの違いが心から認められ、尊重された自由と安全が保障された場では素直な、在るがままの自分を表現しあえる場となっていくでしょう。

素直に聴き合い、そのこころ音を伝え返す相互の人間関係が、自己自身を客観視できる体験過程でもあります。たった今の『生きて在る』自己へと、自ずから導かれていく体験過程でもあります。

 

他の誰とも違う、無意識の自己が意識されていく体験過程そのものが、自己を認めていくことでもあり、関係そのものの体験が、お互いの生きる力になっていくと考えています。
私が教えを頂いた先生のお一人に金内茂男先生(元全日本カウンセリング協議会事務局長)が居られます。先生がセルフ《自立》カウンセリング研究所(東京都)を開設なさった折りに、佐治守夫先生(元東京大学名誉教授)から自戒の意味も込められて贈って頂いた言葉がある事を知りました。

 

潜行蜜用 如愚如魯 只能相続 名主中之主
(中国の曹洞宗・禅の開祖 洞山良价の言葉)

修行とは(カウンセリングの勉強もそうであるが)目立たない密かに行なわ
れるような営みであって、端から見れば愚か者のような、評価されない、誰か
らもあまり目立たない、そういう仕事なのだ。それをひたすら相続する。継続
すると言う事がとても大切なことで、そのような愚者こそまさに主中の主と呼
ばれる人なのだ。

『聴く』事の難しさや自分の在り様に迷いが起き、フと立ち止まってしまったり、自分を見失いそうになる事があります。この言葉を目にし『これでいいんだ。今の自分でいいんだ』と、迷いながら迷いを迷いとし、自分を認めつつ、カウンセリングを学び続ける事になにかしらとても大きな支えと保障を頂いた様な気がします。
佐治先生も金内先生も、もうお目にかかる事は叶わぬ人になっております。

 

H12.8.16.筆