二十数年前のワーク再び
若狭恵美子
平成22年11月3日
数日続いた休みをつかって、書棚の整理を行なった。カウンセリング関係の資料や、今まで参加してきた研修会のご案内文、参加時のメモ等々、この際思い切って仕分け、処分をしようと思い立ったのだ。
その中から、私がカウンセリングの学習を始めて半年後に、初めてワークショップ(基礎学習)に参加し、感想と学びを書いた文章が出てきた。今でも当時のことが部分的ではあるが、はっきりと思い出すことがある。手書きで書かれたそれを読み直し、なぜか涙になった。
2単位取得申請をしたもので、師事していた今は亡き中島榮吉先生の字で、朱書きで大きく a.合格 と書かれている。
『初心忘れるべからず』 とは良く言ったもの。初心を忘れるどころではなく、ずっと学び続けている今、読み返してみると、まだまだ初心の処にウロウロしている自分や、今の自分にはこの言葉はぴったりしないなぁ等と感じたりもしている。
新たな気付きが載けそうで、原文のまま移し書きしてみることにした。
ワークショップに参加して <一人のクライエントになって>
若狭恵美子
昭和62年8月26日 記
開催年月日 昭和62年8月10日~12日
主催 旧 北海道カウンセリングセンター (故中島榮吉先生代表)
カウンセリングの勉強を始めて、半年が経ち、この度三日間の研修会、基礎コースに参加しました。どんな出会いがあって、どんな学習をするのか、まったく未知の状態で参加した訳です。
一日目、全体で講演を聴いた後コース別に分かれました。和室で三十数名が輪になって始めたテーマは 『心の見方を出会いの場に学ぶ』 です。 「聴くと言うことを主におく訓練をしてみたい。」 という世話人の先生のお話があってから、長い沈黙が続き、その後自己紹介が始まりました。再び沈黙があり、重苦しい雰囲気の中、一人の方が隣の人にでも話しかける様な低いボソボソとした口調で、ゆっくりと話し始めました。聞いていくうちに私も同じ様な体験をしているせいか、フッと湧いて来る思いがありました。まったくフッと出たものです。それは、カウンセリングの基礎となる、話を 『聴く』 ということからは反対の自分の枠組みで相手の心・思いを判断した忠告的、助言的なものだと自分自身まったく気が付かない発言でした。その瞬間、ピシャリ (まさにピシャリと感じ取れた。) と言葉がかかりました。「相手の方は、そんなことは言っていませんよ。」という様なことだったと思います。それと同時に非常に重たいものが、自分の中に音を立てて入り込むのが分かりました。その時から部屋の空気が変わったように感じ取れました。言われて明らかに自分のうかつだったことに気付き、また大勢の前でプライドを傷つけられた、と言う思いが頭の中を駆け回りました。
更にその後、目の前に繰り広げられている、言葉のやりとり (相手と話が通じ合わないと感情の表れも入って、言葉尻をとらえて、とことん追求する感じ) とが加わって、その場に居たたまれない程の苦痛でした。 『これは、へたなことは言われないぞ』 という思いがした時、自分から相手の話を聴く行為そのものを、無意識の中に拒否する自分に気付きました。自分の頭の上の方でかわされている言葉尻の追求 (私にはこの時、そう思えた) の中、ノートにこう記していました。 『言葉がすごく邪魔になる。自分を分かってもらう為に、これでもか、これでもかと言葉を駆使していく。それで果たして心が通じ合えるものだろうか。上手く 自分の心を言葉に表せない人は、益々話をするのが嫌になるのではないかしら・・・。違う 違う もっと深いところ、言葉で言い表わせない深いところ・・・』 その場に少しも暖かなものを、感じ取ることができませんでした。不信・不満の感情が湧き上がってきました。それとも、私の心の中に、甘えがあったのでしょうか。『カウンセリングを仕事としている人であるならば、それを目指しての学習の場なのだから、その場の雰囲気を壊さないように、どんなことでも受け入れ、矯正して出してくれる・・』 という。(この考え方は誤りであったことに、後日気が付きました。)
黙って聞く。でも頭の中にはさっぱり入らない。自分の中には、さっぱり入らない。自分の中に、うかつに話されないと言う自己防衛の枠組みが強烈に出来上がってしまったのでしょうか。(じっくり聴くと、話しをしたくなる自分があるのです。) 今 フッと湧いた思いを、スッと出すと言うことから、どんどん遠ざかっていく自分が視えます。その日はとうとう顔を上げて、皆の顔を見ることさえもできませんでした。
二日目、朝家族と話をする気にもなれない重い気持ちを、何とか奮い立たせ、会場へのバスに乗り込みました。何と心の重かったことか。
そのバス路線上に、お地蔵様が一体立っておられる所があります。そこまでバスが来た時、丁度両手に荷物を持ったお婆さんが一人、それでも両手を前に合わせて、お地蔵様に向かわれました。その光景を見た時『救われた』と強烈に感じました。そのお婆さんの心に救われた思いがしたのです。熱い思いが体中に感じられました。
午前中の研修は、過去に実際に行なわれた、カウンセリングのテープを聴きながらの学習でした。ノートには、その場で大事だと思われることを書き取っている私でしたが(それは単に聞いたことを書き取っていた。) 昨日のその状態から、まだ抜け出れないで苦しんでいる自分が視えます。
昼休みの時間、無性に中島先生と、お話がしたくなりました。そのことを何気なく同じ研修に参加している仲間に話すと、 「あなたを受け入れてくれる人と話がしたいのねぇ」 という返事が返ってきました。私はカウンセリングの勉強をしながら、まさに一人のクライエントになっていたのです。
話を聴いてもらいたいのです。ではなぜ仲間ではいけないのか・・・。この自分の重たい気持ちを仲間にだって話したのに、少しも気持ちが晴れないのです。本当に分かってもらえなかった、と言う部分が確かにあるのです。それは、このままの状態では嫌なので何とか自分を変えなくては、と思い悩み、それでも変化できる糸口が見つからず、狭い所を行ったり来たりしている様な感じでした。一日目にお母さんとの悩みを話された方も、きっと同じ様な思いをされていたのかも知れません。支持的であったり、助言、評価、慰めであったりするのは、確かに一時重い気持ちが楽になるものです。でも、根にあるものは、依然と変わってはいない様です。慰め、同調ではないもっと深い所・・・と言う思いがずっとしているのです。
カウンセリングは理解的態度と言われていますが、ただひたすらクライエントの心を受け入れ、クライエント自身を映し出すことによって、クライエント自身が、自ら変わらなければと気が付くのでしょう。根の部分の変化は、誰でもない、自分自身でしなければならないのです。今の自分を、ありのまま受け入れてくれる人を望むクライエントの立場を身を以って経験しました。(中島先生とは、とうとうお話できませんでした。)
午後からは、どんな学習をするかで意見が分かれ、激しいやりとりの末、二つのグループに分かれて学習することになりました。そのやりとりは、自分の思いをはっきりと分かってもらう為に、途中で投げ出したり、妥協したりすること無く、徹底的に言葉を表したものでした。私は話をしないことで(話ができないこと で)自分を表したけれども、思いの全てを言葉に表そうとする、こんなやりとりもあったのです。
グループに分かれてからの学習は、人数の減ったことは勿論、同じことを望んでの学習でしたから、張り詰めていた空気が、すっと楽になった様に感じ取れました。全体が一体化したという様な、和やかな雰囲気の中で、友田不二男先生の講演されたテープを聴きました。その柔かな空気の中で、自然と話をしたい自分になっていることに、気が付きました。
『感じるままに話をする』とか 『思いをそのまま出す』 と言うには、本当にその場の雰囲気が重要な条件になっている様です。私は場の雰囲気作りを自分以外の所(人)に求めていました。それは誤りで、相手や周りが作るのではなく、相手と自分とが一緒になって作り出すものだと気が付きました。雰囲気とは、目に形となって見えないだけに、非常に微妙なものの様です。
以前の学習で、 『無畏施』 と言うことを学びましたが、ここでその言葉の持つ意味を体験できた様に思います。心の中に、少しでも相手に対し用心の心や、恐れる心があるならば、自分を守る為に、益々心を閉ざしていきます。カウンセラーとクライエントが出会った、その瞬間から作り出されるその場の雰囲気は、その後に続くカウンセリングに大きな方向付けをする様に思われます。
三日目は、引き続き二つのグループに分かれての学習でした。和やかな雰囲気の中、私はもうその場の中に、恐れの為に自分を守るということが不要であると、はっきりと自覚していました。
午前中の石原文里先生のテープを聴いての学習では、もう前向きになっているのです。話がスゥと入ってきます。 「あっ ここが分からない」 と思うと、言葉が自然に出てくるのです。この時私は、一つのステップを越えることができたと、はっきりと感じ取れました。
この研修での話し合いや、諸先生の、講演のテープ等、大切なことは沢山ありましたけれど、自分がこの三日間、クライエントの立場を経験できたことを、とても大切にしたいと思います。思い悩み、自分を冷静に見つめることができた貴重な時間と、自らこのままではだめだと気付き、自分を変えようとする、心の動きができるまでの流れを三日間で経験できたのです。短期間で、これ程はっきりとした心の移り変りを自覚したことは、今までに無かったように思います。
心の変化の為には、自分を見つめる為の十分な時間が必要なこと。そしてその流れの中にあって、フッと人の心を揺さ振るもの、人の心に働きかけるものの大切さを改めて思い知らされました。それは時として、悩める人とは、まったく関係のない人が、関係の無い所で、何気なくした行為であっても、見る者・聴く者の心を救う場合があるのです。悩み苦しんでいるクライエントは、その心の中に、真のカウンセラーを望んでいます。それは必ずしもカウンセラーがカウンセラーたるのではなく、何気ない愛情に満ちた人の、行為そのものが、悩んでいる人の心に深く影響を与えるならば、その人もまた真のカウンセラーではないかと、思われるのです。私が、お地蔵様に手を合わせていたお婆さんに、心を救われた様に、自分もいつか悩める人が“救われた”と思えるようなお手伝いができたなら、本当に嬉しいのですが。
最後の閉会式での主催者である中島先生のお話は、自分のこの三日間の経験と合い重なって、非常に感慨深いものでした。自分の枠組みで他の人の心を判断してはいけないことを、体験を通じてお話されたのです。これから、どれだけのことを、私は吸収できるか分かりませんが、いつも自分を見つめ続けていきたいと思います。この次にワークショップに参加する機会がありましたら、ぜひ出席される方々と沢山のお話をしてみたいです。今回は自分の悩みで一杯でしたから・・・。