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2009/10/17

子育て応援講演会が行われました

・日時 21年3月20日
・場所 札幌カウンセリング学習センター
・講師 センター代表 若狭 恵美子

 

子供の心が育つ親の関わり

講演した内容を一部手直しし、文章にしました。
文責は若狭にあります。

“子育て”について自分の体験や、仕事をとおして感じたこと、理解したこと等をお話したいと思います。
こう育てたらいいとか、子育てはこうあるべきだではなく、むしろ皆さんお一人お一人が、私の話を『聴く』と言うことをとおし、ご自分の中で何か感じて動いたもの、――― 何かよく分からないなぁ、とか そういうことかぁ等 ――― があれば、そこがきっと今必要としている或いは ご自分にとって今役に立つ処ではないかなぁ、と思います。
ご自分の感じた動いた処を大切にしながら、聴いて頂ければと思います。

 

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講演のテーマは『子供の心が育つ親の関わり』ということですが、毎日毎日、人間が育つ関係ってどのような関係なのだろうかと、人との関係に教えて頂きながら過ごしています。 講演のテーマでも分かりますように、育つのは子供自身の生きる力です。 そこに親はどのような関わりをもてたらいいのか、ということだと考えています。

人と人との“関わり”の基本とは、コミュにケーションということですが、コミュニケーション・・・辞書を引っ張り出して確認しました。 語源はラテン語だそうで『共有するということ。 お互いに意味を共有し、了解し合うこと』と書かれています。 『お互いに意味を共有し、了解し合う』とは、『自分を伝える』ということと『他者の話を聴く』ということです。 しかし 自分を伝えもせずに「分かってもらえない」とか、きちんと相手を分かろうとせずに「何を考えているのか、あの人はさっぱり分からない」とか「多分あの人はこうだろう」等と、了解し合うではなく、一方的な関係が日常の場では、沢山おきています。

『意味を共有し、了解し合う』には『自分を相手に分かりやすいように伝える・相手をできるだけそのまま分かろうとして聴く』ということです。 人と人との間と書いて、人間と読みますが、人と人との間の関わりの中で行われることです。 お互いがそのようになっているということで、『人間は関わりの中で育つ』ということです。

コミュニケーションは、人間同士だけかと言ったら、そうでもない。 我が家にダックスフントのサラダ君が居て、意味が共有できている、と感じる時が、結構あります。 サラダ君に直接聴いてみたこともないので、彼はどんなふうに思っているのか分かりませんが、確かに意味が共有できている、理解し合っていると思える時があります。 大きな目でじっと見つめられたりすると、「お母さんって言ってごらん。 話してごらん。」と思わず語りかけたりもしています。

 

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日常至る所で人間関係を目にしますし、そのやり取りも耳に入ってきます。 なかなか、意味を共有し理解し合うことは、難しいなぁと考えさせられます。

以前にこんなことがありました。 バスの中で若いお母さんが、女の子と男の子を連れていました。 もうすぐ終点という所で女の子が「お母さん、お腹が痛い。 」と言いました。お母さんはその子を無視、一言も言いません。 きっとバスに乗る前に、その親子の間で何かあったのかも知れませんが、 女の子はそのまま黙ってしまいました。 我慢し切れなくなったのか、その後も二度程「お腹が痛い」と言いましたが、お母さんはちらっと見て一言も発しませんでした。 その時、女の子の心に育ったのは何だったのでしょうか。

これも何年か前の冬のことです。私の横をお母さんと2~3才位の女の子が歩いていました。 女の子がパーと走り出して、ステンと転んでしまいました。 その途端お母さんが大きな怒った声で「だから走るんでないと言ったでしょう。 」と言いました。 痛かったことに加え、怒られたことで物凄い勢いで泣き出しました。

これも同じ冬道での出来事です。 3~4才位の男の子がステンと転びました。 怪我もなく起き上がって「お母さん 坂って滑るんだねぇ」と言って笑い合っていました。 親の、或いは周りの人の言葉や態度一つで、相手が学ぶものに大きな違いがでるなぁと思っています。

次は中年のご夫婦の会話です。 私が買物によく行くスーパーでのことです。 お店の入り口にお花を売っているコーナーがありました。 その中にそれはみごとなユリの花がありました。 買い物を終えて帰る私と、そのご夫婦がすれ違いました。 奥様が「お父さん見て。 あのユリの花きれいだねぇ」と。 間髪を入れず「そんなもの どうする。 」ご主人の返答に奥様は一言も発せずに黙ってしまいました。 ご主人には、奥様の言葉がどのように届いたのでしょう。 もしかしたら「買って頂戴」 「ほしい・・・」って聞こえたのかも知れません。

意味を共有しながら了解し合う・・・聴き合う 伝え合うというのは大事なことです。その聴き合う伝え合う人間関係の中で、人は多くのことを学んでいきます。 自分は、あなたは、何を学んでいくのでしょう。

 

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今まで 専門学校や大学校で講義をさせて頂きました。 毎年のことながら、コミュニケーションがとれない学生さんがおります。 こちらから話し掛けても首だけちょっと振るとかで言葉が全然出てこないのです。 色々な方がおられるので、それは私は駄目なこととは思わないのです。 今そうせざるを得ない、そうしていることが精一杯・・・そういう処でおられるのだなぁと了解できるのです。 しかし そのような方々と接していると、 『自分を自分らしく活き活き生きている』処から遠いだろうなぁ、そして何か苦しいだろうなぁって、私の方で思ったりしま す。

そのようなことを考えますと、自分が育ってきた頃のことや、子供を育ててきた頃のことを思い返したりもします。 あまり良い親ではなかったなぁと思います。 良いと思われる関わりをしてなかったんですが、子供は良く育ちました。 自分の人生を自分で一生懸命に生きています。 私は、時々自分を振り返ったり、また 実際にカウンセリングの仕事をしていますし、どんな関係が共に育つ関係か等と毎日やっていると、少しずつですが観えてきて、そしてはっきりとしてくるもの があります。

以前に桃太郎の昔話について書かれた本を読んだことがありました。 あの桃から生まれた桃太郎です。 鬼が島に鬼退治に出掛ける時、自立の時ですね。 お爺さんは『日本一の桃太郎』という旗を持たせてくれました。 お婆さんは『きみ団子』を持たせてくれました。この二つはとても大事なものです。 『日本一』これは、親の子に対する愛情あふれる受容
・・・今のあなたがいい、生きていく上で何があっても大丈夫、自分の力で切り抜けていけるよという親の思い、存在そのものの認めと、信頼が込められている ように思います。『きみ団子』これは食物です。 体の中に入れる大切なものです。 道中 犬 猿 雉に会って、持っているきみ団子を分けてあげ、仲間になってもらいました。 一緒に鬼退治に向かうわけです。 このお婆さんが持たせてくれたきみ団子が、仲間と分かちあえるだけの数がなかったら、どうでしょう。 自分の食べる分が無くなったら困るので、もしかしたら、分けてあげなかったかも知れません。当然仲間になってはくれませんでしたでしょう。 また反対に、余るだけ多くのきみ団子だったら、重すぎて桃太郎は持って運ぶのに、苦労したかも知れませんし、沢山あるから、大事にしなかったかも知れませ ん。 ちょうど良い数、
・・程々の量・・何かあるように思います。

さて自分は子供達にこの『旗』と『お団子』はどうでしょう。 自分を大切な存在なのだと、子供が自らを信頼できる『旗』と、これからの人生で巡り合っていく、大切な人々と分かちあっていける程の『お団子』を持たせて いるでしょうか。 また 私達も自分の親からどんな『旗』と、どのくらいの『お団子』を貰ってきたと思っているのでしょうか。

 

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さて お話は変わりますがつい最近のこと、高校生の頃からの親友の一人に久し振りに会って、おしゃべりをしました。 40数年の付き合いです。 彼女は、数年前に一大決心をしたと思うのですが、子供達と離れ、単身で本州の大都会に移り住み、ある企業の寮母として生活を始めました。 50才代半ばまで、道南の小さな町に暮らし続けていた彼女から本州に行くと聞いた時は、とても驚いたものでした。その後年賀状のやり取りを続けていました が、どうしているかと思い電話をかけてみると、札幌に居るということで、またまた驚きました。 札幌に移り住んだとのことですが、その理由は病気でした。 本州で仕事をしながら、体調が悪いと受診をした時には、もう大変な状態。 大学病院に入院し、子供達が呼ばれ「北海道に連れて帰るなら、ここ一週間の内に・・・。 」と言われたそうです。 すぐに子供達は、札幌市内の大学病院を手配して、連れ帰ることになりました。 で 転院の為に退院するという日、同室の人に「子供達に、本当に迷惑を掛けてしまった。 」と話したそうです。 たまたまそこには、同室の人の娘さんも居て、その話を聞いていたとのことでした。 で病室を後にしたら、同室の人の娘さんが自分を追い掛けてきて「子供にしたら迷惑だなんて全然思わないんだよ。 」 と伝えてくれたとのことでした。 その言葉を聴いた途端に「あぁ、私は親だったんだ。 」と、とても強く思ったとのことでした。 それはどこから来るのでしょう。 何人も子供さんが居て、もう既に皆さん成人しておられるのです。30年以上も親をやっていて、自分は親だったって、自覚できた体 験。

このことからも分かるように、人は自分を取り巻く状況がどのようであろうが、その人自身が何か『そうなのだ』とならないと自分の腑に落ちてこない。そうな らない。

そのことを話してくれながらその親友は、昔を振り返りながらこのような話もしてくださいました。 ずうっと子供の頃から「生きていなくても良いと思ってきた。 それは死にたいとか、世の中が嫌になったとかではなく、生きるということにあまり思いがなかった。
でも今は違う。 自分が親だってはっきり自覚できた時から、生きようと思えている。 」

手遅れの状態から良いお医者様と、体にあった薬で今はお元気になっています。 「これからは、孫の世話をし、楽しみながら生きていこうと思っている。 」とのことです。

毎日の暮らしの中で、他者からの、特に親からの肯定的な受容の体験や、違いを違いとして認め合っていく体験が、自分で自分をそのまま肯定し、自分の存在を 認めていける、また他者をも大切にできるのではないでしょうか。 このことが私達が生きていく、生きぬいていく力、エネルギーになっていくのではないかと思っていま す。

私の話を聞きながら、皆さんの中で、どのような心の動きが起こっておられるのでしょうか。