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2013/03/04

体験の中で学んだ人間関係

平成25年1月

 

自分がこれまで体験してきた人間関係のなかで、どの関係であれば絆が深まったと言えるのか。発展的な関係がもてたと言えるのかと考えると、とても難しい。その瞬間には、とても絆が深まった、発展的な関係だと思えていても、つぎの瞬間には深かったはずの絆が切れてしまっているように感じられたり、どこへも発展できない関係になってしまっているように感じられたりということもある。私自身が心が一つのところに留まっていないのと同じように、私と周囲の人たちとのつながりも、近づいたり離れたり、進んだり後戻りしたり、ひろがったり縮んだりと、絶えず動きがあるようである。そのつながりがどのような方向に動こうとしているのか、どのくらいの深さまで行こうとしているのか。私の意思が動いているようにも思えるし、私の意志や理解を超えたところで力が働いているように思えるときもある。

私にとって、心地よいつながり、良いつながりというのは無くしたくないと思う。無くさないように努力する。守ろうとする。力を込めて押しとめようとする。でもどれだけ力を込めて押し止めても、少しずつ動いていく。変わっていく。ついさっきまでは、あんなに近くにあったものが、今ではあんなに遠くにある。大事に守っていたものが、自分の手の中で全く違うものに変わっている。

例えば、私にとって不快なつながり、悪いつながりはあってほしくない。万が一、つながってしまったときには、断ち切ろうとする。締め出そうとする。でもどんなに力いっぱい断ち切っても、断ち切れたように見えても消えはしない。どんなにかたく扉を閉ざしても、隙間から少しずつ忍び込んできて、最後には大きな流れになって私を飲みこんでしまう。心地よい、良いつながりが、不快な、悪いつながりに変わってしまうこともあるし、その反対もある。私にとって人とのつながりというのは、一つの色、一つのかたちにはとどめておけないものである。無常のものである。どの人との関係でも、ある瞬間にはとても深く、強くつながっている。またある瞬間には浅く、儚いつながりである。ある瞬間にはとても発展的である。しかしある瞬間にはとても狭くとても息苦しく感じられる。

 

人と人とのつながりの在り様は、海のようだと感じてみる。

満ちている、引いている。

凪いでいる、荒れている。

澄んでいる、濁っている。

繁げる、隔てる。

命を育む、命を飲み込む。

渦巻く、波立つ。
与える、奪う。
海は私のちっぽけな身体でははかり知れないほど優しく、厳しく、広く、深い。私は海に含まれる一部分でもあるし、海は私自身に含まれるものでもある。私は人と人とのつながりの中の一部分であること。同時に、私自身の中につながりの全体が含まれているということ。しかしただ、あるがままに任せておけばいいというものではない。海を見ないまま、海に触れないままでその広さ、深さを知ることができないように、人と触れ合わないままで、そのつながりの温かさ、厳しさ、強さ、儚さを知ることできない。

 

人と人とのつながりを海のようだと感じてみる。

以前の私は、海を見ることもなく、触れることもなく、海を知ろうとしていた。知ったつもりになっていた。今私は初めて海を見て、その果てしない広さに驚愕している。その深さに畏れの気持ちを抱いている。しかし私の気持ちは海に向かいつつある。私の身体いっぱいで、その広さ、深さを知りたいと思う。厳しさ、優しさを感じたいと思う。海に臨む私の気持ちも、毎日、刻一刻、変わるだろう。海に呑み込まれそうになったり、海を征服したような気持ちになったり、変わってゆくことに悲しみを感じたり、怒りを感じたり、喜びを感じたり。それでも、どんな時でも、私の前に海は広がっているのだ。

 

《S》