この頃 時々言葉がやって来ます。もう何十年も前の、高校生の頃のことです。随分昔のことなので、前後は思い出すこともできないでいます。
学校内でのことです。担任の先生が私個人のことで、話かけて下さったことがありました。その話が終わった後、クラスメイト(男子)のことを話されました。当時は一クラス50人近くの人数でした。友人と言われる人との関係は、ごく一部でしたので、ほとんどの女子も男子も、話をしたことが無い状況でした。その男子は、今で言う不登校になっていたのでしょう。(当時の私は、知らずにいました。)先生は、私に「○○君はお腹が張って、ガスが出ることを気にかけて、学校に来られない状態でいる。」
妙にこのフレーズが、やって来ます。 今になって思い出します。 ときどき でも鮮明に。
先生は、私に何を伝えたかったのか・・・。
どの様な思いで、私にだけ話したのか・・・。(先生は随分前に亡くなられておられるし、その男子の顔は勿論のこと、失礼ながら名前さえ、思い出せないでいます。)
先生の意図は、クラスの皆に私から話題提供をして、全員で話し合いをもってほしかったのでは・・・と勝手ながら思たりもします。(勿論違っていることも、多いにあり得ることではありますが・・・。)
その様な時、とても大事にしている本の中に、次の文章(言葉)があり、繋がってきました。
マルティン・ブーバーは、五感に依存しない知覚があり、それを感得(会得)と言う言葉で表現している。『具体的に何なのかわからないとしても。私に話しかけるのは、彼の言葉ではない。だが、何かが語りかけるのである。すぐに応答しなければならないこともあるだろうし、どこか別な機会に、別な人々に、応答することもあるだろう。どの様な言葉で応答するかも定かではないが、重要なのは、私が応答することなのである。いずれにせよ、私に応答を求める一つの言葉が生じたのである。』
「呼びかけられている」「自分は応答しなければならないと感じる。」これが感得である。言葉として発することではない。自分なりのやり方で応じる。自分だけにしかできない使命が全ての人に必ず与えられている。あなたを必要としている人が必ずいるのだ。
しかし この感得は『差別の意識がある限り生まれることはない』とブーバーは言っている。
<我―汝>の関係を築くことは決してできない…と。
ブーバーに学ぶ 「他者』と本当に分かり合うための30章より
斉藤 啓一 著 発行所 株式会社日本教文社
この年齢になり、何十年もたって、私に応答を求める言葉として、やっと私に届くことができたのだなあと思います。自分なりのやり方で応じていかなくちゃ・・・。自分の使命として。
使命・・・命を使うと書きます。凄い言葉だなぁ。
(若)3年3月25日 筆