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2008/04/24

あるがままに

以前に、カウンセリングの関係を持たせて頂いたAさんから、文章が送られてきた。
迷いや葛藤や、病をも、自分の一部として認めておられる姿が伝わってきて、Aさんの力が感じられた。その文章の一部を紹介したい。

 

〈前記述省略)

気持ちを聴いてもらえたカウンセラーとの出会い

 

さり気ない態度、程よい距離感をまず最初に感じ、安心した。私には話したいことが山のようにあった。経過を自分なりに辿って話していく中で、初めて聴いてもらえているという感覚、手応えがあった。どんな私もそのまま出してしまっていい様な気がして、自分を取り繕わなくてよかった。ただ受け入れてくれた。そのまんまに。
しかし、それだけではなかった。カウンセラーの一言が私のもやもやを的確に表現してくれたり、何かもう一押しされるような何かがあった。私はその一押しをずっと探し求めていた。それが何なのか、今の私にはまだ分からない。

自分の気持ちを聴いてもらえなかった経験は沢山ある。今まで何人かのカウンセラーとの出会いもそうだった。一番には「動かされる」ような感じを受けた。そして、ひたすら私を持ち上げようとする聞き方。まるで、いい子ちゃんじゃなきゃいけない様な気がしてきて、私も本音を言えなくなってくる。手をいくら伸ばしても届かない雲を掴むような、無意味な経験だった。帰りにはどうしようもなく空しい気持ちになった。カウンセラーがこちらをどうにかしようという働きが加わった時、どうもこちらにとってはありがたくない方向に向かう様だ。

 

また、次のような一文もあった。

 

私は鬱病の治療を受けていて、長い間「動かされて」いたように思う。また、そうされたがっていた様に思う。何故なら自分で何の責任を持たなくて良いし、言い訳ができたからかもしれない。その一方で「私抜き」の治療や医療機関でのカウンセリングに対して不満を募らせてもいた。今では、鬱とどう向き合っていくかは、他でもない私自身の問題であり、私にしか出来様の無いことなのだと思っている。

(後記述省略)

 

読み終わって、と、突然『あるがまま』の言葉が、私の中で動きと奥行きを持った。

『あるがままを認める』と表現する事があるが、この言葉が持つ働きの中には“『あるがまま』の不確かさ”や“『あるがまま』を認めきれない私”を感じさせる。
『あるがまま』と言葉にすると、その途端、人それぞれに固定化されてしまうのは、言葉の働きとして致し方のないことではあるが、『あるがまま』のそのありようは、決して固定化しているものではない。むしろその言葉自体に“積極性”を感じる。自分の中の全体は、常に『積極性を伴ったあるがまま』である。それはロジャーズが述べている『生命を維持し強化していく』という実現傾向に他ならないであろう。
『あるがままに』とは、具体に意識されない、自分の中の全体に、人知を越えて「出会えた」瞬間に『なる』言葉であろう。

Aさんにとって、『あるがまま』が『あるがまま』に素直に自分に届けられ、言葉になるには、多くの葛藤と諦めと、長い長い時間が必要であったことか。お幸せを心から願わずにはおられない。
それにしてもなんと多くの学びを与えてくれる文章であろうか。

(この文章を載せるにあたり、Aさんの了承を得ました。)

20年3月12日筆

若狭 恵美子