自らの命を自らの手で終えられた人々、他者との関わりの中で命を奪われた人々、思いもよらなかった事故や災害で命を奪われた人々のこと等が毎日報道されています。読む度に、聴く度に、哀しみと共に虚しさを(時には怒りを伴って)感じてしまうのは私だけでしょうか。天寿を全うされた場合でも周りの人々がどんなにか、こころを動かされ悲しさと向き合っているかを思うと、突然の予期せぬ出来事は察して余るものがあります。
中でも他害・自害行為は社会(集団)の中で生きている私達が、人間としての最低限で最も基本的な条件『お互いの命が守られ違いが尊重される』ことが徹底され、守られ、受け継がれていかないのは何故なのかと思わずにはいられません。生きて在る全ての人々が、人間として未熟で成長過程の途中であることを差し引いても、人間の愚かさ・虚しさ・哀れさを感じます。
この感じ・感覚は、まさに間違いなく自分の中にも在る愚かさ虚しさ哀れさがあって、うごめく響きであると受け止めてもいます。
苦悩の中、疲れ果ててカウンセリングを受けに来られる人々は、肉体をも脅かす脅威でいっぱいになっているのを感じさせます。本人なりの納得が得られ、腑に落ちるまで探し続け苦しみ続けていく姿は、生命体の働きの凄さと同時に、生きることの意味を強く問いかけてくるものがあります。
今日はちょっと重たく、遭ってほしくないお話 … ではありますが、私達人間の『生きて在る』こころの動きの一つを書かせていただきました。しかし苦しく辛いことが人生だとか、悲観的に捉えられては、私の伝えたい本意ではありません。物事は必ず表裏一体、二律背反です。反対側の観方・考え方も同時にあります。
カウンセリングの関係を通し出会いをいただいている多くの人々は、苦しみを自分のこととして受け入れ、生きることへの方向性に転じ、こころの成長を遂げられています。目覚めていなかった『こころの芽』が顔を出し、自分自身で成し遂げた達成感を言葉にしていかれます。それを大きく育てていくのは、その後のご本人の生き方次第であることは言うまでもありません。
また学習会で学ぶ多くの仲間の皆様の姿から、苦しい辛いことも沢山あるけれど、今を超越し人間としての成長し続けていくいのちの働きや力が、それぞれの人に確かに在ることを教えていただいています。関係が力になることを実感しています。
自分が変わりたいと願い、行動するならば・・・。
(若) 2024.2.27 筆