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2008/12/12

生活の中の生き物 その命

結婚してからもう30数年。思い出すと、その生活は、いつも小動物が一緒です。結婚と同時に夫は、金魚とセキセイインコを連れてきました。その後、子供達の成長と共に、メダカやくわがた虫やあり地獄や、カーテンには蝉が登っていたりしました。ハムスターや手乗りの文鳥達は、赤ちゃんの頃やって来て、老衰で歩くのもやっとながら、いつもしていたように、手に乗ってその後静かに亡くなっていきました。

 

以前、息子が巣から落ちてしまった子スズメを、拾って来ました。私に育ててほしい、と言うのです。夫もたまに、怪我をしている小鳥等を拾ってくることもありました。私は、野生の生き物を手元において育てることには、反対ですが、息子の気持ちも分からないではなく、自然に帰してあげるということで、世話を始めました。それ迄に、文鳥を雛鳥から育てていたので、その要領でくちを大きく開ける子スズメに、餌を与え続けました。順調に育ち、羽もしっかりとしてきました。羽ばたきも力強くなってきた頃、自然に戻してあげようと、解き放す場所を色々考えました。あまり家が建てこんでいない所、カラスに狙われないように、すぐ身を隠せる木が沢山はえている場所等など。自然の生き物に、私の手で命の長さを変えることには、元々違和感を覚えるのですが、実際に手にかけると、情も移ってしまいます。
家族皆に、子スズメを放してあげることを伝え、一人で、『ここなら大丈夫』という場所に連れていきました。人が側にいないこと、カラスもいないことを確認し、かごの蓋を開けました。一度低く勢い良く飛んで物陰に隠れました。そしてすぐ、今度はより高く飛び立ったその瞬間でした。一羽のカラスが、物凄いスピードで襲いかかりました。アッという間の出来事でした。カラスは、子スズメをくわえたまま、すぐ近くの電柱の上にとまり、しばらくの間じっとしていました。くわえられているその様子が、はっきりと私には見えていました。その時、不思議な感覚が湧き起こりました。『子スズメの命を、最後まできちんと見てあげなくてはいけない。最後を見届けるのは私の責任なのだ』と・・・。程なくカラスが飛び立っていくまで、じっとその光景を見続けていました。
空になったかごをぶら下げ、帰る間『このことは家族の誰にも言わないでおこう』と、何故か考えていました。その光景は、鮮明に私の中に残りながらも、感情は言葉になかなかなりませんでした。茫然自失とはこういうことを言うのでしょうか。この心の痛みは、私だけが味わい感じ、持ち続ければいいと思いました。それが、育て、その時その場所を選んで解き放した、私の責任の取り方だと思いました。

家族には、少し小さな声だったかも知れません。「元気に飛んでいったよ・・・。」

 

命は、人の手が加えられて、永らえられるものではないような気がします。永らえることができるのは、その命に生きる力と『何か』があるからだ、と思います。人の手は、そこに少しだけ手伝っているにすぎないように思います。

 

今 我が家には、8才になるダックスフントと12才を越えた2羽の小桜インコがいます。
20年11月4日 筆